モーツァルトの弟子は、なぜ歴史に埋もれたのか ― フンメルの生涯
ショパンが憧れ、リストが手本にし、ベートーベンと並び称された音楽家。19世紀前半ヨーロッパ音楽界の頂点に立っていたもう一人の巨匠をご存知でしょうか。
モーツァルトが天才ベートーベンが革新者だとすればこの人、
ヨハンネポムク・フンメルは完成されたプロフェッショナルでした。
音楽家の権利を守ろうとしピアノ奏法を体系化しそして当時としては珍しく経済的にも成功を収めた音楽家です。
これほどの人物でありながら、その名前は驚くほど知られていません。
今回は、その理由を探るために、フンメルの生涯を辿っていきたいと思います。
ぜひ最後まで見てください

第一章 神童、モーツァルトの家に住む
フンメルは、1778年11月14日、当時ハンガリー王国に属していたプレスブルク、現在のスロバキアの首都ブラキスラバに生まれました。
父ヨハネス・フンメルはバイオリニスト兼音楽教師で、グラッサルコビチ伯爵の宮廷オーケストラに使えていました。
その後プレスブルク劇場のオーケストラ指揮者を務め、 1780年頃にバルトベルク現在のスロバキア・セネツの士官学校の音楽監督となった人物です。
息子の才能を早くから見出し、フンメルは4歳でバイオリンを習い、ピアノや歌も習います。
そして7歳で様々な曲を弾きこなす驚異的なピアニストに成長します。
1786年フンメルが8歳の時父の仕事の関係でウィーンに移り住みました ここで運命的な出会いが起こります。
それはモーツァルトです。

モーツァルトは30歳、すでに一流の作曲家でした。
モーツァルトはフンメルの才能に感銘を受け、なんと無償で、しかも自宅に住まわせてレッスンを行うことを決めます
それは約2年間にわたる住み込みの教育です。
モーツァルトは8歳のフンメルをまるで家族の一員のように育てたと伝えられています
それだけフンメルの才能がズバ抜けていたことや、 性格的な相性もあったのかもしれませんね。
モーツァルトから何を学んだのか。それは単なるピアノ技術だけではありませんでした。
旋律の美しさ、声部の透明な扱い、そしてウィーン古典派の様式感覚、それらは、フンメルの音楽の根幹を形作っていきます。
1788年、モーツァルトの指導の下、わずか9歳でフンメルは公開演奏会デビューを果たします。
そこには、モーツァルトがこの少年の才能を確信していたことが、はっきりと現れていました。
その後、父と共にヨーロッパ各地を演奏旅行に出かけます。
この父と二人のヨーロッパ旅行はまさにモーツァルトの大旅行の再現でした。
フンメル親子はまず北ドイツを巡り、 デンマークのコペンハーゲンを訪れ、そこからイギリスへ渡って エディンバラ、そしてロンドン。さらにオランダを経て、長い演奏旅行になりました。各地でフンメル少年は、
「モーサルトの弟子ですぅー。」
として紹介され宮廷や貴族のサロンで演奏を披露しました

ロンドンではピアノの大家ムツィオ・クレメンティに支持する機会も得ています
クレメンティはモーツァルトとは全く異なるスタイルの持ち主で、 力強いタッチ、技巧的なパッセージを重視するピアニズムの開拓者でした。
ええ、あのジョンフィールドをこき使ったクレメンティからも指導を受けてるんだ。
クレメンティについては詳しく解説した動画があるので是非見てください。
よろしくお願いします
モーツァルトの歌うような優美さとクレメンティの構築的な技巧、フンメルはこの旅で2つの流派を同時に吸収したのです
この旅は約4年から5年に渡りました。
しかし、フンメルが旅から戻ったウィーンは、モーツァルトが戻った時のウィーンとは全く 違う場所になりつつあったのです。
大きく分けて3つ変わったことがあります
まず一つ目は、宮廷パトロンシステムの崩壊が始まっていたということです。 1789年から始まったフランス革命の衝撃は、ヨーロッパ中の宮廷を揺るがし貴族たちの財政は戦費で圧迫されていました。
芸術に回せる余裕が確実に減り始めていたのです。
モーツァルト自身が晩年に経済的苦境に陥ったのも、 浪費癖だけが理由ではありません。
パトロンという仕組みそのものが弱体化していたのです。
フンメルの旅は、演奏家としては大成功でした。
しかしそこから、モーツァルトのような決定的な後ろ盾が生まれることはありませんでした。
神童としての名声は得ましたが、名声の換金方法が、もう変わり始めていたのです。
第二に音楽の消費される場所が変わりつつありました。
まだ完全ではないものの、音楽は私的な空間から、 より大きく公的な場へと移行し始めていました。
つまり宮廷のサロンから市民の公開コンサートへと移りつつあったのです
サロンでは繊細さや優雅さが求められていましたが、ホールではより大きな音とより強い感情が必要になります。
つまりモーツァルト的な親密な対話から、よりスケールが大きく直接感情に訴える音楽が求められつつあったのです。
その転換を象徴する人物が1792年ウィーンに現れていました
ルートビヒ・ヴァン・ベートーベンです
そして、第三に、音楽家に求められるものが変わったということです。
モーツァルトの時代、音楽家は究極的には職人でした。
高貴な雇い主に使え求められた音楽を美しく正確に慣例に従って、最高の技術で提供することが求められていました。
しかし、フランス革命が自由平等の理念を広めるにつれ、芸術家は使えるものから自己表現する個人へと変わり始めていたのです。
ベートーベンは、まさにこの新しい時代の芸術家像を体現していました。
パトロンに頭を下げることを嫌い、
「君は偶然によって貴族になったが私は自分自身によってベートーベンになった」
という1806年にパトロンのリヒノフスキー公と決裂した時の有名な言葉が表しています。
これは「公爵はたくさんいるだがベートーベンは世界に一人しかいない」ということです。
つまり芸術家は個性で勝負する存在になりつつあったんですね。
フンメルが帰ってきたウィーンでは、この新しい価値観を持った青年ベートーベンが、すでに嵐のような存在感を放ち始めていたのです。

そんな1793年のウィーンに戻ってたフンメルは、対位法のカールブレヒツベルガー、そしてハイドンの訓導も受けています。
サリエリからも声楽の作曲法を学びました
つまりフンメルは、ウィーン古典派の巨匠たちから直接音楽を受け継いだ、 最後の世代の一人だったと言えるのかもしれません。
しかしその時にはすでに時代そのものが変わり始め音楽に求められるものが静かに決定的に変わりつつありました
第二章 ベートーベンのライバル
対位法の大家に学び、ハイドンやサリエリの下で技術を身につけていったフンメルは、ウィーンに戻ると、その才能を次第に開花させていきます。

磨き上げられた技巧と洗練された音楽製は、人々の注目を集め、やがて彼はウィーンの音楽界で確かな地位を築いていきました。
そして、1800年頃には、ウィーンのピアノ界は、二人の圧倒的な存在によって語られるようになります。
一方にベートーベンで、もう一方にフンメルです。
今の私たちの感覚からすると圧倒的にベートーベンの方が有名ですが 当時の長州にとってこの2人は対等のライバルでした
いえむしろフンメルの方が人気があった時期もありました.
二人のスタイルは対照的でした。
ベートーベンのピアノ演奏は、力強く、ダイナミックで、当時の繊細なピアノには大きな負担をかけるほどの激しさがありました。
感情を爆発させるような奏法です。
一方フンメルは、モーツァルト譲りの、粒が揃ったように美しい音と、滑らかに繋がる演奏、そして一つ一つの音が正確に揃った見事な指さばきで、聴衆を魅了しました。
指が鍵盤の上を滑るようで、どんな難しいパッセージも涼しい顔でこなしたと伝えられています。
力ではなく、美と優雅さで聴くものを圧倒するスタイルです。
ベートーベンの弟子ツェルニーは後に後回想しています。
「フーメルの演奏を聞いた後ではベートーベンの演奏がそやに聞こえることがあった」
1803年25歳のフンメルは、アントン・ワイディンガーという奏者のためにトランペット競争曲補聴長を発表します。
この作品は、当時新しく開発されたキー付きトランペットの可能性を、最大限に引き出した、非常に先進的なものでした。
現在でもハイドンの競争曲と並ぶ重要なレパートリーとして演奏されています。
そして翌1804年フンメルはハイドンの推薦を受けエステルハージ家の学長に就任します。
これはかつてハイドン自身が30年にわたって勤めた音楽史上極めて重要なポストです
当時フンメルは26歳。若き巨匠として、 明日ともにヨーロッパ音楽界のトップに立ちました。
実はフンメルが着任した宮廷は、ハイドンの全盛期とはまるで違う場所になっていました。
え、どういうことだ?
かつてはオペラハウスを持ち、年間100回以上の上演が行われた宮廷が、 ナポレオン戦争の財政圧迫で音楽への予算を削り続けていました。
オーケストラは縮小され、活動の中心は礼拝堂のミサ曲にほぼ限られていたのです。
それでもフンメルは職務を果たそうとしました。
ミサ曲を作曲し宮廷コンサートを企画し楽団を指揮します。
しかし、同時に彼はヨーロッパ最高のピアニストの一人でもありました。 つまり宮廷の仕事だけでは物足りなかったのです
そして、ウィーンでの演奏会やレッスンにも精を出すようになります。
それは単なる収入の問題ではありませんでした。
フンメルにとって、演奏することそのものが、 音楽家としての本質だったのです。
しかし、フンメルのこの行動は宮廷側の不満を買いました。
「学長が外の仕事ばかりしているじゃないか。」
そしてこの宮廷であの有名な事件が起きます
1807年ベートーベンがエステルハージ家の依頼でミサ曲を作曲し アイゼンスタッドで初演されました
しかし、当主ニコラウス2世はこう言い放ちます。
「親愛なるベートーベン一体何を書いたのですか」
ハイドンの丹精なミサ曲に慣れた公爵には、 ベートーベンの革新的な音楽が理解できなかったのです。
この場にフンメルもいました。
そして彼がこの時、ニコラウス二世に同調するような態度を見せたことが、ベートーベンとの関係を悪化させてしまったのではないかと言われています。
また、ベートーベンは元来、疑い深く、侮辱に対して極めて敏感な性格でした。
さらに1800年代に入ると難聴が進行し始め、精神的にも不安定な時期を迎えていました。
この頃のベートーベンは、人生の大きな葛藤の中にいました。
あの有名なハイリゲンシュタットの遺書を書いていた直後だったのです。
1811年フンメルは解雇されます。 ナポレオン戦争によるインフレ楽団内の対立そして音楽にさほど関心のない当主とのみぞが原因となりました。
ハイドンが30年守りぬいたイスをフンメルは7年で失いました
しかし、この解雇は、一つの時代の終わりを象徴していました。
貴族が音楽家を抱えにする時代は、 もう終わろうとしていたのです。
もしかすると、フンメルは皮肉にも、 パトロンシステムの最後の学長になったのかもしれません。
第三章 宮廷学長の栄光と苦悩
1811年宮廷内の政治的対立や財政問題から解雇されたフンメルはフリーランスの演奏家作曲家としてウィーンで活動しヨーロッパ各地で演奏旅行を行いました
この時期のフンメルの人気は絶大で、各地で熱狂的に迎えられています。
フンメルは1813年オペラ歌手エリーザベとレッケルと結婚します 彼女は当時ウィーンで活躍する実力派の歌手でした
興味深いのは彼女がベートーベンと関係があった可能性があることです 音楽的にも人間関係的にもフンメルは常にベートーベンと交差する位置にいたのですね
またフンメルには2人の息子がいたそうです
1813年フンメルがエステルハージ家を解雇されてから約2年が経っていました
ナポレオン戦争がようやく終わりを迎え
ウィーンでは負傷した兵士たちのための大規模なチャリティ演奏会が開かれます
ベートーベンの公共曲第7番とウェリントンの勝利が演奏されます
ナポレオンに勝利した連合軍を讃えるこの壮大な作品に
ウィーン10の一流音楽家が総動員されました
サリエリが大砲の効果音を指揮しシュポワがバイオリンを弾きマイヤベイヤが大太鼓を 叩きますそして踏ん目るはドラムを担当しました
すごいんだぜぜひ見てみたいなでもなんでドラムなんだろう ヨーロッパ最高のピアニストが太鼓を叩いている
滑稽に聞こえるかもしれませんでもこれが意味するのは踏ん目るがこのオールスター 公園に呼ばれる側の人間だったということです
ベートーベンが「この舞台に立ってほしい」と認めた音楽家だったということなのです。
エステルハージ家の学長という肩書を失っても、フンメルの名声は健在でした。
むしろ宮廷の枠から解放されたことで、ピアニストとしての活動を全力で再開し、
ウィーン会議という世界最大の舞台で、改めてその存在感を示したのです。
1816年38歳のフンメルは今のドイツ南西部にあったブギュルテンベルク王国の首都シュプットガルトの宮廷学長に就任します。
新天地シュプットガルトへと旅立つフンメルにライバルのベートーベンはある曲を贈りました
それが、『カノン芸術は長く、生は短し』です。
これは古代ギリシャの石ヒポクラテスの格言。
人生は短いが、磨き上げた技術や芸術は永遠に残る。
ベートーベンはウィーンのピアノ界を二分して戦った最大のライバルに対し最高の敬意を込めてこの言葉を送ったのです
二人は性格の違いから何度も衝突し、 時には絶好状態に近い時期もありました。
しかし、別れの間際にこうした心のこもった曲を送っている事実は、 二人の友情が本物であったことを裏付けています。
そしてその実力が再び評価され、1819年41歳になったフンメルはバイマルへと招かれることになります。
フンメルの名声を聞き大公妃マリアパブロブナから熱心な勧誘を受けました。
ロシア皇帝の妹で、音楽に非常に理解があった彼女は、 フンメルを宮廷楽長として迎え入れるため、積極的に働きかけました。
バイマルは当時、ドイツ文化の中心の一つでした。
文学や芸術が集まり、多くの知識人たちが行き交う場所でもあります。
フンメルはそこで様々な分野の芸術家たちと交流を深めていきました その中にはヨハン・ボルフガング・フォン・ゲーテの姿もありました。
当時のゲーテは「若きウェルテルの悩み」で社会現象を巻き起こしその名はすでにヨーロッパ全土に 広がっていました
フンメルはゲーテと親しい交流を持ちました。
ゲーテはフンメルの音楽を高く評価し、頻繁に彼の演奏を聴いています。
文豪ゲーテと宮廷楽長フンメルの知的交流は、当時のワイマールの文化的豊かさを象徴しています。
ワイマール学長として、フンメルはオペラ上演の式、宮廷コンサートの企画、若い音楽家の教育など、多岐にわたる仕事をこなしました。
しかし同時に、宮廷の官僚的な制約にも悩まされています。
それでもフンメルは亡くなるまでこの地位を保ち続けました。 ワイマールは彼の終の住処となるのです。
この時期、フンメルは作曲家演奏家としての活動に加え、ゲーテと共に芸術の街バイマルの発展に貢献したとされています。
フンメルは、楽譜の無断複製や販売に強く反対し、自らの作品を財産として守るべきものだと考えていました。
作品には権利があり、それを守る必要がある。
そうした意識を体現した先駆的な音楽家の一人だったのです
これは後の音楽著作権の考え方へとつながる重要な一歩でもありました。
つまりフンメルは音楽もちゃんと守られるべきものだって考えた。
かなり先進的な人だったってことだな。
第4章ベートーベン臨終
1827年3月、ベートーベンが死の床にありました。
長年疎遠だったフンメルは、ベートーベンが重病であるとの知らせを聞くと、ワイマールからウィーンに駆けつけます。
フンメルの弟子であるフェルディナント・ヒラーが、 この場面を詳細に記録しています。
フェルディナンド・ヒラーは、 あのシャルル・バランタン・アルカンの文通友達です。
アルカンについても解説した動画がありますので、ぜひご覧ください。
フンメルがベートーベンの寝室に入ると かつてのライバルは痩せ衰え重い病に苦しんでいました。
ベートーベンの目にフンメルの姿が映った時、 彼の顔に喜びの表情が浮かんだと言います。
二人はかつての確執を超え、言葉を交わしました。
フンメルは何度かベートーベンを見舞い、 その度に涙を流したと伝えられています。
同行していた弟子のヒラーは、
「フンメルが病室を出た後声を上げて泣いていた」
と回想しています。そして1827年3月26日、 ベートーベンは息を引き取りました。
フンメルは、ベートーベンの葬儀に参列し棺を持つ36人の松明持ちの一人を務めました。
この葬儀には2万人以上のウィーン市民が参列したとされています。
ライバルであり、友人であり、同じ時代を生きた二人、その物語は音楽史の中で最も感動的なエピソードの一つと言えるでしょう。
ベートーベンの死後、フンメルはそのピアノ作品をもとに即興演奏を行うチャリティコンサートを開いています。
それは単なる追悼ではありませんでした。
音楽そのもので敬意を示す、これ以上にふさわしい形は、なかったのかもしれません。
第五章 時代を繋いだ巨匠
1828年、フンメルはピアノ教本を出版します。
それは当時の演奏技術を体系化したもので、後の時代に大きな影響を与えることになります。
フンメルの教本は、どうすればうまく弾けるのかを示した設計図で、感覚に頼るのではなく、ピアノ演奏を理論と実践の両面から体系化したのです。
この本はショパン、リスト、シューマンをはじめとする次世代の音楽家たちのバイブルとなりました。
フンメルはバイマルに拠点を置きながらパリやロンドンでも演奏旅行を行っていました。 ロンドンではその性格で美しい演奏が高く評価されヨーロッパ屈指のピアニストとしての地位を確立します。 一方パリでも演奏活動を行いますがそこはすでにロマン派の中心地。彼の音楽は尊敬されながらも最先端の流れとは少し距離がありました。
1834年56歳になったフンメルは、ウィーンでの演奏旅行を最後に、病気のために演奏活動を引退します。
そして、約3年間の糖病生活を経て1837年、 フンメルはバイマルでその生涯を終えます。
享年58歳でした。
葬儀に際しては恩師モーツァルトのレクイエムが演奏されたそうです。
彼の死は、当時の音楽界においても大きく奉じられ、多くの人々に惜しまれました。
その墓は現在も、バイマル歴史墓地に残されています。
ゲイテやシラーといった文化人が眠るこの場所に、フンメルもまた、同じ時代を築いた人物として並んでいます。
ヨハンネポムク・フンメルは、 その時代において確かに中心にいた音楽家でした。
しかし、音楽がより強い個性とドラマを求める時代へと移る中で、彼の近世と優美さは、やがて控えめなものとして埋もれていきます。
またフンメルの洗練されバランスの取れた音楽は、ベートーベンのような強烈な個性や物語性のある人物像を持っていませんでした。
その整いすぎた存在は、この変化の時代の中では記憶に残りにくかったのかもしれません。
それでも彼の音楽は消えたわけではありません。
ピアノ競争曲や教本を通じて、その技術と美学は次の世代へと受け継がれていきました。
彼は時代を変えた革命家ではありません。
しかし、時代を繋いだ存在だったのです。
今改めて聞くとき、そこには古典派の透明さと、 ロマン派の史上が同時に響いています。
それはまさに、モーツァルトの優美さにロマン派の色彩を加えた音楽。
つまりそれがフンメルの本当の価値なのです
彼の華麗な装飾的パッセージ、半音階的な和製の冒険、歌うような長い旋律、これらは明らかにショパンやメンデルスゾーンの先駆です。
ショパンは若い頃、ベートーベンよりも フンメルに傾倒していたことが手紙から分かっています。
リストも10代の頃フンメルに支持することを望みましたが、 レッスン量の折り合いがつかず実現しなかったそうです。
シューマンもフンメルの作品を深く研究しています。
つまり、フンメルなくしてロマン派のピアノ音楽は語れない、 これは決して大げさではないのです。
モーツァルトに愛された神童。
ベートーベンと並んだ巨匠。
ショパンに道を示した先駆者。
音楽家の権利を守った闘志
そしてゲーテに愛された芸術家
ヨハンネ・ポムク・フンメルは音楽史のつなぎ役として軽く扱われがちですが、その実態は一つの時代を支え、次の時代を切り開いた真の巨匠だったのです。
以上が、ヨハンネポムクフンメルの生涯でした。